セルビアの幼馴染みに再会した日。
胸があつい。
セルビア人の幼馴染みに、7年ぶりに会いました。
土曜日の19時30分。
お互いを認知した瞬間に、興奮がおさまらず、
話は途切れることなく盛り上がり、
時刻は23時近くなっていました。
3時間半、テーブルとふたつの椅子に収まり、まるで不条理劇かマリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスのように、顔をつきあわせ続ける。
ふいに3秒ほど見つめ合うとき、
5歳ころに遊んだ自宅前の公園の光景が脳裏に浮かび、
感慨深い気持ちがひろがる。
幼馴染みの彼女は、日本の教育システムのなかで、
小学校、中学校、高校と過ごし、
母国セルビアの大学で学んだのち、
中国で修士号を取った。
国籍は違うけれど、故郷は同じ。
セルビアでの逆カルチャー・ショックや、
中国で留学生活を送ることの苦労。
現在の職場が「リアル・プラダを来た悪魔」であること。
自身もドラマみたい、と言う彼女の演技力あふれる再現に、映画のシーンが重なる。
とりわけ、いっぷう変わった物理の研究者の父を持つ者同士、
家族の話にも花が咲く。
わたしたちの生まれ育った地域や学校は、
国籍を問わず研究者の子息が多く、
型にはまらない生き方をしている同窓生が多い。
地球上のどこにいるかわからない人、自営する者、研究の道をひた走る者。
のびのびと、既成を越えていく。
すごく貴重な「コミュニティ」を持っていたんだな、とローカルな資産に気づく。
ちゃんと聞いたことがなかった。
だから知りたくて、
見ていたものの異なる中学時代や、知らない高校時代の話など、
大総集編とでもいうべきスピードと熱量で、駆ける。
ある地点を共有し、
その後の期間で、同じ年を刻み、近似した環境で、
やっていたこと、考えたこと、思ったこと。
この、同条件上にあるふたつの個体の掛け算の威力はすごい。
もっと自分自身が成長して、大きな力にしたい、という欲が生まれた。
紛争で10年以上、帰れなかったユーゴ解体のこと、
自分をセルビア人だと感じるか、
コミュニスト世代と80年世代のジェネレーション・ギャップが親子で起こること。
セルビア人とクロアチア人はとても似ているのに、なぜいがみ合うのか?という問い。
聞いてはいけないようで聞けなかった、
国や考え方のことなど、気にしない、と答えてくれた。
身近だけれど身近でなかった存在がきらきらと光る。
わたしはこんなことがあったんだけど、どう?
あった、あった。
これが不思議なんだよね。
どうしてこうなのかわからなくて。
重いことも苦いことも、それはふだんの夕餉の支度の過程であるかのように、
あかるく笑う。
ひたすら英語で返されること。
彼女が日本人に日本語で話しているのに、
英語で答えが返ってくること。
彼女は日本人らしさを持ち、おおらかで親しんだ空気をまとう。
文化の差異やカルチャー・ショックを、常日頃、ことあるごとに感じながら暮らしてきた。
その特異性や苦労の大きさにかかわらず、わたしたちは同じだ。
共通する記憶は、成人したわたしたちの前で幼子(おさなご)の守り札のように、たゆたう。
出会って20年経ち、彼女の口にするセルビア語をはじめてきいた。
私がチェコというカルチャーに触れたことで、かちり、と音をたてて動き出した
関係性とも言える。
幼馴染みーー姉妹とも同窓生とも違う、愛すべき存在。ともだちってすてきだな。
私は顔がまるくなっているのに、まったく変わらないね、と彼女は言う。
私は昔から、自分から人を誘うということがなかった。
誰かとわいわい過ごすより、じっとひとりでいることが好きだった。
本を読み、何かを書きつけ、ぼうっとする。
そして、ああ今日も無為に時が過ぎたと得心し、床につく。
チェコでしばらく暮らしたことで、
日本にいても外国だなと感じる。
体感する故郷が異なる。
成田空港に降り立つ時、
突然、周囲は日本人になり、細くて小柄な人が増え、
家具や什器や建物のスケールが縮小される。
その「え?」と誰ともなく問いたくなる瞬間のこと。
3月にまた会おうと別れた。
400mの距離に住んでいることも、知らなかったのだ。
1月14日はセルビアのお正月。
会えてよかった。