とりさんとチェコのピアノ

Ptáček a České Klavír

とりさんの自己紹介

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はじめまして、とりさんです。

チェコプラハでの音楽留学2年目になりました。

メインの楽器はピアノ。

あとフォルテピアノの勉強もしています。

 

12月に29歳になります。

わたしがピアノを弾こう、と決めたのは25歳のとき。

留学を実行したのが27歳。

なぜピアノなの?

 

幼少期(0歳〜6歳)

茨城県南、旧桜村に生まれる。

3歳でヤマハ音楽教室に通い、音楽教育を受けはじめる。キリスト教カトリックの幼稚園に通う。

6歳のクリスマス、はじめての海外旅行。フランスのパリとイギリスのロンドンを訪れます。パリでピアノを学んでいた叔母を訪ねて、両親と姉、祖母ともうひとりの叔母での旅行でした。


小学校時代(6歳〜12歳)

3年生のときの自作曲「Legend」(伝説、友人が英語でタイトルをつけていてかっこいい、とまねして親に英単語候補をあげてもらい付けた)の創作過程で、わたしは9歳なりに産みの苦しみを味わっていました。

キーフレーズはできた。展開部分もできた。でも突拍子がなくて、つながり部分がうまくつくれない。そこで先生が手助けして大部分を作曲しました。ほとんど先生の曲になってしまったうえ、好きになれず、弾きたくないなあと。

母の実家に遊びに行く機会がありました。そこで母の妹である叔母に相談します。叔母はすでに帰国しており、当時20代の花ざかり。

わたしは幼少期から彼女を尊敬し、彼女のようになりたいと思っていました。芸術家である彼女を自分の唯一の理解者のように感じていました。

彼女は、ピアノの前に座って創作をはじめました。できあがったものは、なんてすてきなんだろう!曲とはこんなふうにできるのか。こんなものがつくれるのか。もとの輪郭を残し、素敵な曲に仕上げてくれました。子供心にいたく感動しました。

いざ弾いてみると難しくて弾けません。オクターブを減らしてもらうなどし、自分の曲のはずなのに、母に叱られながら、発表会に向けて必死に練習しました。いま見ても、目の覚めるような音の連なりや構造に舌を巻きます。

このできごとで、音楽や美術、西洋発祥の芸術を学ぶにはヨーロッパへ行かなければ!わたしはヨーロッパ(フランスのパリ)に行く、と決めました。


中学校時代(12歳〜15歳)

3年生になり、受験勉強のため先生のもとにレッスンに通う日常は終わりました。これで楽になる!とそのときは思いました。同時に思うような音がでなくなり、わたしのピアノは終わったんだな……と当時、愛唱していた杜甫『春望』「国敗れて山河あり…」の心境でした。
ピアノだけの人になるのが嫌だという思いと共に、なんとなく表現したいものはピアノではないな、ピアノだけでは表すことができないな、と感じていました。それに、大きなホールのステージで演奏することの違和感や、自分で楽器の調律ができない不満もありました。小学生の作曲の出来事以来、自分の中で「日本の音楽大学に行く」という選択肢は消滅していました。「なにか違う」「わたし(らしい選択)じゃない」という直感を見失わないようにしました。


高校・大学時代(15歳〜23歳)

わたしは大学のインダストリアルデザイン・建築学科をめざしていました。デザイナーになりたかったのです。

1年の浪人生活後、結局、物理を克服できずに、センター試験のみで出願しておいた多摩美術大学芸術学科に入学します。「芸術」「デザイン」というもの枠組み・カテゴリーを越えて、考えることの素地をつくった場所のように思います。

ときどき即興でメロディをつくるくらいで、ピアノはほぼ弾かない生活。映像作品に自分で作曲して自分で弾いた音を使うなどしていました。

フランスに行くから、フランス語を勉強すると決めていたなあ…と思い出し、第2言語でフランス語を選択。そして3年次に姉の卒業旅行で16年ぶり2回目のパリへ。

4年次には卒業論文執筆のためにドイツ各地(フランクフルト→ケルン→ゾーリンゲン→ヴッパタール→ハンブルクブレーメン→ベルリン)をひとりで20日間まわりました。

 
会社員時代(23〜27歳)

大学を卒業し、就職して観光地として有名な岐阜県飛騨高山に移り住みます。
2年目のあるとき、飛騨地方の伝統工芸である「春慶塗り」を施した弦楽器が完成した記念で、その楽器による弦楽四重奏のコンサートがありました。その息のあった演奏に触れて、とっさに、この人たちにわたしのピアノを聴いてもらいたい!と思いました。

そして、彼らが審査員をつとめる「飛騨河合音楽コンクール」がおとなりの飛騨市河合村で開催されていることを知り、コンクールに向けて準備をはじめました。

12歳以来、13年ぶりのコンクール。そこで予選を通過します。

弦奏者に認めてもらえたと嬉しかったのですが、本選は何も準備をしていなかったため散々でした。

すべて終わった後、審査員の先生がたは仕事しながらがんばってるね、とねぎらってくれ、

伴奏者として来ていた先生には「(本選はボロボロだったけれど、予選で弾いた)バッハはよかったよ。あんな弾き方があるんだな〜と新鮮だった」と誠実なコメントをくださいました。その言葉を聞くやいなや、

わたしは涙がとまらなくなります。先生は何も泣くことはない、とおろおろ。

このころのわたしは仕事の面で精神的に不安定でした。社会人2年目に念願叶ってデザイン室の配属となったものの、度重なる自己否定で口数も減り、ビジネス書を読み漁っては悩む日々。

わたしは自分にとっていかにピアノが大切なものかに気がつきました。

その後も、弾くことがよりいっそうかけがえのないものになっていきます。私の演奏を聞いて、立ち上がれなるほど感動してくれた人がいたこと。旅先のオスロ駅で受けた暖かい拍手。

一方で、満足な演奏ができず、聞いてくれた人に申し訳がたたない、人に聞かせられないものならばやめよう、と思い詰めました。切羽詰まり、音楽が崩壊しているような状態。感情だけのがさつで、ねじふせるような音。
ピアノのための環境にいきたい。この種をもっとのばしたい。
わたしのピアノに、自分自身にも呼吸をさせてあげたい。

このままではわたしもピアノもダメになってしまう。


宮下奈都さんの小説『羊と鋼の森』のなかで、ピアノが弾けなくなってしまった双子の妹・由仁の分も弾いていくことを決意した姉・和音が言います。「ピアノで食べて生きていく」じゃなくて、「ピアノを食べて生きていくんだよ」と。


音楽に関わる人のバイブル(?)漫画『のだめカンタービレ』のなかで、主人公ののだめが、10歳ほどで音楽院に飛び級入学をしているルカに尋ねます。ルカがおじいちゃんに言われた言葉としてそれに答えます。神様からもらった音楽の才能を人のために使うのだと。

 

ピアノしか取り柄のない子になるのがいやだった。私の選択が、そのアイデンティティの否定を出発点としていたから、なんだかくるしかったのだなーとわかりました。

ようやく、わたしは「ピアノが好きなんだ」と認めることができた。

師との出会いもありました。

3月に岐阜で行われた「ぎふ・プラハ音楽アカデミー」で現在の先生、Milan Langerミラン・ランゲル先生に出会います。

先生は、音楽を愛し奏でようとする者を受け入れない理由があるだろうか、というようなことをおっしゃいました。のちにプラハ音楽院の入学許可証が自宅に郵送されてきても、大きく環境を変えることにためらいがありました。

仕事はいつのまにか「耐えるもの」になっており、「とにかく耐えるんだ」と自分に言い聞かせ、目的が「耐えること」になっていました。転職、大学院進学や大学院留学を考えましたが、死ぬ前にやっておきたいことをやろう、と行き着いた答えは「ピアノ」でした。いちばん好きなこと、あとでじゃなくて、まずそれをやろうと。

 

留学する1年前、Mozart モーツァルトソナタに取り組む過程で、フォルテピアノという歴史的にはチェンバロと現代のピアノのあいだに存在する楽器と、その奏者・指導者である平井千絵先生に出会います。

平井千絵先生の公式サイト http://www.chiehirai.com

この美しい楽器との出会いにより、木と音の手仕事 wood and music with my hand がひとつのテーマになりました。ゆくゆくは森林と音楽の文明史を研究したい。ピアノを弾くことは、手仕事のようである。そうおっしゃったのはピアニスト舘野泉さんで、彼の著作で出会った一節です。木が好きで木の仕事をしてきて、楽器のモノとしての魅力も学び、伝えたいと思ったのです。

 

フランスではないけれどこれも何かの縁だと、これらが最終的な後押しとなり、2016年9月、新卒で4年半務めた木工家具会社を退職し、チェコに渡りプラハでの生活をはじめます。

 

これからのこと、現在(27歳〜29歳)

ピアノを弾くことは、現在の生活の中心にありますが、めざすのはモノとコトを提供できる「ライフ・スタイル・アーティスト」のような在り方です。

ふつうであること、を大切に思っているところがある。ドレスは着ずにできるだけふつうのたたずまいでいられる衣装で弾いている。ギャラリーや小さなスペースでパフォーマンスするのがいい。そのひとの生(せい)に、ひとの暮らしによりそうような音を奏でたい。
10代でピアノだけでは表現できない、と感じたように、自分の中には常にいくつかのイメージがあって、それは気持ちが特別に動くもので、それぞれにぴったりなフォルムをみつけて、言葉・音・絵などになっていく過程が好きです。その手ざわりを、浮かんでいるイメージにぴたりとはまるモノを、この目にみたい、という動機で何かをつくる。ときおり音に集中していると、自分が「耳になっている」と感じるときがある。子どものころから、いまあるこのかんじは、なんだろう?と、感覚そのものを見つめていた気がします。
 
ありきたりですが、やり方はひとつではありません。「好き」をだいじにすること。やり方は広げられる。アーティストならば、レジデンスやスタージュ(研修)制度があるし、例えば3ヶ月だけ短期集中で講座を受け、技術向上を図る術もある。場所は大学だけではないし、学位取得を目的としなくてもよい。
 
人にはそれぞれ、ものごととの距離感のようなものがあると思います。
これはできそうだな、自分に向いていそうだな、とカンが働くものもあるし、無理そうだけどやってみたいな、と思うこと(どちらかというと、こちらのほうに執着する)もある。ちょっとくるしいけれど、できるようになりたい、という思いがあるから続けられるもの。人から勧められてやってみること。もう無理だっとほうり投げてしまうこと。
あきらめたっていいのです。がんばってみたけれど、これは無理だった、でいいのです。
難しそうかな〜と思ってから「やってみる→やっぱりだめだった」または「やってみる→お、これはいけるかも→続けてみる」。この繰り返し。
 
私の場合は、自分にほんのすこしの才能があること、ちょっと上手にできること、それがピアノで、弾いて人に喜んでもらえる、わたし自身は無理をしないで、楽でいられるものでした。だからいまは、自分の音を磨くために勉強しています。 
これからレパートリーとしてふやしたいのは、Janáček ヤナーチェクGrieg グリーグSibelius シベリウスSaint-Saëns サンサーンスMendelsshon メンデルスゾーンなど。ちなみに好きな作曲家は、Schubert シューベルトPurcell パーセルです。
 
やっていること(2017年11月28日現在)
・ピアノレッスンを受ける
・ピアノの練習をする
・コンサートで演奏する
・合唱団の伴奏をする
チェコ語を勉強する
・英語を勉強する
・天文講座を受ける
・アート・カンファレンスに参加する
・「世界青年の船(SWY30)」の準備
・マスタークラスやアカデミーなどへの応募
 
2018年に実行すること
・「世界青年の船(SWY30)」
・サンディアゴ・コンポステーラを歩く
 …
 
2018年1月〜3月に内閣府「世界青年の船」事業(Ship for World Youth Leaders Program/略してSWY)に参加予定です。これは11カ国から集まった18歳〜30歳の青年200名弱がひとつの船に乗り、およそ1ヶ月間かけて日本からインド・スリランカへ寄港するというプログラム(寄港地は毎年異なります)。移動中も船内ではディスカッションやセミナーなど様々な活動が行われます。この関係で、グローバルヘルスについて勉強したり、セミナー企画やデザイン制作ものを担当したり、チェコにいながら準備にいそがしいこの頃です。サポートしてくれるプロフェッショナルがまわりにいる、やってみたいことをグローバルな舞台で試せる環境。若い世代からも学べることがたくさん。
 
所属のない状態で動いてみたい気持ちもありつつ、分析・批評的にみる力をもっとつけたい、持っているテーマを掘り下げたい、などの思いからいずれは修士号取得も念頭にあります。
 
いろんなご縁に心から感謝しマイペースにやっています。
読んでくださりありがとうございました。
 
とり